ちこういん

幸福

幸せ(幸福)
 
「幸せ」というと、みな受け取り方が違うでしょう。
 
「万人共通の幸せ」というふうに考えたとき、 仏さまにこんなお言葉があります。
 
事がおこったときに、
友だちがあるのは幸せである。
どんなことにでも満足する者は幸せである。
寿命のつきるとき、福徳あることは幸せである。
すべての苦しみを断ちきることは、幸せである。
 
人生において歳を取っていく、幸せをどういうふうに掴んでいったらいいか。すんなり入るようなお言葉です。
 
最初の「友あるは幸せ」
友人というと、子どもの時からだんだんと、幼稚園、小学校、中学、高校、大学と、それからまたそれぞれの付き合いの中で友情というものも生まれていきますが、「本当の友人いるか?」と問うてみますと、それぞれその時代で、その時必要な大事な友だちではあっても、ほんとに一生涯通して変わらざる友情が保てるかというと、なかなかそれができるとは言えないものです。
 
友情を本当に培うにはどうしたらいいか。時には自分を叱ってくれるような、今でも忠告をしてくれるようなそんな友だちがいたら、これは幸せです。
案外私たちは、楽しいことだけ共有することはあっても、忠言は嫌だと言って逃げ出す場合も出てくるものです。
 
友について、お釈迦さまのお話を紹介します。
 
釈迦族たちが住んでいるところにサッカラという村がありました。

ある時、従兄弟でもある、長年いつも付き従っていたアーナンダ(阿難)という弟子が、お釈迦さまに質問しました。

 
大徳よ。よくよく考えてみますと、私どもが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、既にこの聖なる道の半ばを成就したに等しいと思われます。この考え方は如何でありましょうか。
 
 
こう問い掛けました。
聖なる道である仏の道を、ともに求めて歩いている、そういう友人というのは、道の半ばを成就したに等しいと思うのですがどうでしょうか。
と、アーナンダの問いに対してお釈迦さまのお答えは。
 
 
アーナンダよ、それはちがう。
そういう考え方はただしくない。
アーナンダよ、われらが善き友をもち、
善き仲間とともにあるということは、
それは、この聖なる道のなかばにあたるのでなく、
まったくそのすべてなのである。
 
 

「半ばでなくて、それが全部だ」とお答えになりました。

 
アーナンダとしてみれば、友人をもつということ、しかもそれが道を共にする友人をもつということが、「道の半ば、半分だ」という言い方をしていますが、それをお釈迦さまは、そうじゃないと。
 
さらに次の答えは。
 
 
アーナンダよ、
これを考えてみても解るではないか。
人々は、わたしを善き友とすることによって、
老いねばならぬ身にして
老いより自由になることができる。
病まねばならぬ身にして
病いより自由になることができる。
死なねばならぬ人間でありながら、
死より解脱することができる。
アーナンダよ、
このことを考えても、善き友をもち、
善き仲間とともにあることが、
この道のすべてであるという
意味がわかるはずである。
『サンユッタニカーヤ』
 



 
「人々は、わたしを善き友にすることによって」
お師匠さん、指導者であるお釈迦さまは、自分が偉いんでもないでもない、君たちと一緒なんだ。弟子と師という形ではなく「私というものは、あなたがたと共にある。みんなの仲間だ」と言い切られます。
 
道を共に歩む友こそすべてで、老いより自由になり、病いより自由になり、死というものの不安から解放されることであると言われました。
 
仏さまは「善き友を持ち、善き仲間と共にあるということは、この道のすべてである」と教えています。
 
 
道を共に歩むパートナーはいますか?
得ることが出来たら、それは幸せであり、すべてですよね。
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