ちこういん

善い人ばかりだと

「人皆心有り。心おのおの執(と)れること有り」
 

ある日、子どもたちが自由に遊んでいた時のこと。
子どもたちに「もうおやつの時間だから、片付けをして手を洗っておいで」と声をかけました。

すると、積み木遊びをしていた子が、組み立てていた積み木の片付けを始めました。遊びをした時は、箱に片づけることになっているからです。

その時、積み木遊びをしていた子の近くで絵本を読んでいた子が、本棚に絵本を返した後、積み木を片付けている子に向かって「手伝おうか」と言いました。

ところが、申し出を受けた子は「これは俺が遊んだんだから、俺が片付ける」と答えました。日頃から、自分で遊んだものは責任を持って片づけるよう教えられていたからです。

それに対して、手伝いを申し出た子は、日頃から「お手伝いをすることはよいことだ」と教えられていることもあり、「一緒にした方が早く終わるよ」と言って、積み木に手を伸ばしました。

すると、積み木にさわろうとした途端、片付けていた子が「やめて!」と言って、その子の手をたたきました。

端からは、二人がケンカをしているようにしか見えないのですが、一人は自分の責任を全うするために、全部自分で片付けようとする子。
もう一人は、教えられたように、片付けを手伝おうとする子。
どちらも間違ってはいないし「善い子」なのですが、お互いに自らの善を主張するあまり、そこに争いが生じてしまったという訳です。

私たちの「争い」というのは、「善と悪」、あるいは「悪と悪」とが引き起こしているかのように見えますが、当事者同士は自らの正しさを信じて疑わないが故に、争っているのだといえます。


争いの種は私の心から生まれる

 
「善人ばかりの家庭では、争いがたえない」と言います。


なぜか?

いつも自分では「善いことをしている」と思っているからです。
いわゆる「独善」です。
ても、それは「自分にとって都合の善いこと」をしているだけかもしれません。
 
家庭のなかが、善人の集まりだと、他を無意識のうちに傷つけたり貶めたり、常に争うことにもなるのです。
民族や国家間の争いも同じことだといえます。
そう考えると「争い」の内実は、善と善とのぶつかりあいかもしれません。
 
争いの種はどこから生まれるのか
それは常に「自分は正しい」と錯覚してしまう自己中心的な心でしょう。
 
 


我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。
(かれ)必ず愚(おろ)かに非ず。
共に是()れ凡夫(ぼんぶ)ならくのみ。
 
 
自分は必ずしも道理に通じた聖人ではない。
また、彼は必ずしも道理の通じない愚かな人ではありません。
人は共に凡夫。
自己中心的な判断に陥りがちな人間なのだという意味です。

ここで「お互いに凡夫でしかない」と言うのは、話し合いの場において、そのような自分自身を自覚することが大切であるということを教えています。

ここに対話の心構えがあります。
 

 
「人皆心有り。心おのおの執(と)れること有り」

つまり、誰もがこだわりの心(執着心)を持っているのであり、自分の思い通りにならないことや、気に入らないことに対しては怒り、偏ったものの見方をしてしまう可能性を持っています。

とらわれをなくすには、謙虚な心を持たねばなりません。
それは、智慧があってこそのものです。
 
智慧とは、因果をわきまえ、縁を感じ、その中に自己を観ることです。
仏道こそ智慧を磨く修行。
 
 
聖徳太子「十七条憲法」
二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、尤だ悪しきもの鮮し、能く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉れるを直くせん。
 
二にいう。心から三宝(仏教)を敬いなさい。3つの宝とは仏と法理と僧侶のことです。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どの時代でも、どんな人でも仏教の法理を尊ばないことがあろうか。人に悪い者は少ない。良く教えれば正道に従うものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心を正すことができるだろうか。
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