ちこういん

善悪の判断 其の2

3月12日 おはようございます。
 
ご訪問有難うございます。
 
善悪の基準の話の続きで、
仏教は「結果を重視」ではなく、「動機を重視」します。
 

原始仏典の中には、心を込めて座席を提供する行為を続けた結果、天界へ生まれ変わった、という話しのお経など、善行を説くお経も多くあります。

ひとつ、具体的な事例で仏教の善悪基準を考えてみましょう。
善の行為に関連して、たとえば「親切の押し売り」は、どう判断するか。
 
相手は、親身になって親切してくれいるのですが、押しつけがましさを感じてしまい、しまいにいらだつ気分になる経験を、誰でもしたことはあると思います。


これは善行為なのか?

 
相手は、確かに親身にはなっている。
そのお気持ちは分かります。


ですが、こちら側の意向など全く眼中なし。

一方的に押しつけてくる感じ。
「いや、いいですから」とやんわり断っても、しつこくきます。

 

勧誘のようです。
ですが、「相手も良いことをしたいので、まあ、正しいのか?

こう悩む方もいるかもしれません。
 

しかし、このような親切の押し売りは、悪行為に入ります。
もっとも悪行為と100%は言い切れませんが、悪行為の要因の多い行為になります。


本当の意味での善行為とは言えないでしょう。

善いことだからといって、相手が望んでいないことを押しつけることは、エゴかもしれません。
 

こういうものの中には、偽善も含まれることがあります。
つまりは、動機がエゴになっていることが多いのですね。

あるいは、無知(学習不足)によるものです。


本当に相手の幸せを願うのなら、こういうエゴを動機とした行為はしなくなります。

 

もう一つ考えてみます。
善い行為だからといって、家族や周囲に苦労を背負わせて、一生懸命になり過ぎる人もいます。「善いことだからドンドンやりましょう」という理屈ですね。

 

しかしこれも悪行為です。
もちろん100%悪行為とは言えませんし、状況によっては判断も違いますが、心を汚しながらの行為は、悪行為になっていきます。

ですのでせっかくの貢献も、効果は半減するでしょう。
大抵、無理な行為をする根底には、強すぎる欲や執着が絡んでいることが多いものです。

 

こういった行為は「心が汚れている」「煩悩が盛ん」であるので、悪行為になってしまいがちです。一見すると正しいように見えて、そうではないことが少なくありません。
しかも巻き込まれる周囲も大迷惑です。また往々にして、こういった行為は、トラブルも招きがちです。

結局、「量」「結果」「形」を求めるから、このようになるのでしょう。
量や結果を求める善行為ではなく、質の高い善行為(動機が清らかな善行為)を心がけることですね。

 
また、興奮して一種のお祭りのようなノリで行うのではなく、心を落ち着けることが大切です。落ち着いた心、リラックスした感じは大切です。
 
こういう良い状態の上で、相手の立場なりを理解しながら行うのが善行為として正しくなります。理想ですね。
 

こういう考えを推し進めていきますと、無理なことはできなくなります。
自分ができる範囲以内での行為をするようになります。
結果的に中庸を得たバランスのある生活にもつながっていきます。

 

以上が、仏教の善悪の基本的な考え方です。
100%完璧に実践はできることではありませんが、善悪の基準として知っておくことは有益なのではないでしょうか。

 
スポンサーサイト



ちこういん
Posted byちこういん

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply