ちこういん

親思う心に勝る親心

12月6日 おはようございます。
 
ご訪問有難うございます。
 


親思う心にまさる親心
今日のおとずれ何ときくらん

 

これは、吉田松陰が処刑される1週間前に詠んだ歌です。

子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深いということ。
 
「私が死んだと聞いたら、親はどんなに嘆くだろう」
松陰の人柄がしのばれます。
 
親の愛情は、人間として生まれてきて他者から注がれる最大の贈り物。
恋愛がいつかは消えるのに対し、親の愛情は終生変わりません。
 
明治維新の精神的指導者、吉田松陰。
維新を支えた数々の偉人たちを松下村塾において教育しました。
歴史に残る偉業は、その母である「滝」の優しさに支えられたものでした。
 


松陰の生家である杉家。

祖父である七兵衛の本好きゆえの散財により貧しく、
父・百合之助が13歳の時に家が全焼し、一層貧苦にあえぐ家でした。

そんな中、杉家に嫁いできた滝が一番初めに口にした言葉はこうでした。
「今日から、毎日風呂に入ります」
 

江戸期には風呂を沸かすことは現代とは違って、とても大変な重労働でした。
何人ものお手伝いを雇っている武家屋敷ですら、数日に一回入るのが普通であるほどです。
それにも関わらず、滝は杉家で毎日風呂を沸かすというのです。

 

滝は、風呂を沸かす大変な重労働全て自分ひとりの力で行いました。
松陰ら子どもたちは成長すると、自然と母の仕事を手伝うようになったと言います。

 

父・百合之介は、初めは身分不相応だと言って毎日風呂を沸かすことに反対したそうです。しかし、滝は毎日風呂に入ることだけは決して譲りませんでした。

滝の考えはこうでした。
 

貧しさのあまりに心まで貧しくなってしまってはどうしようもない。
温かい湯につかることで、心まで温まり、翌日も頑張る意欲が生まれるはずだ。
寒さは気力を萎えさせてしまう。

 

家族は次第に納得し、文句を言わないようになりました。
そしてこんな滝の強さは、幼い松陰の心に色濃く刻み付けられていくのです。

 
松陰の父である百合之助の末弟に玉木文之進がいます。
松下村塾の開始者であり、とても厳しい性格として有名です。
 

後の昭和天皇である裕仁親王の教育係を務めた陸軍大将、学習院院長の乃木大将も、この玉木文之進の薫育を受けたそうです。

そんな厳格な彼をして
「我が兄嫁は男子も及ばぬ婦人である」
と言わしめたほど、松陰の母である滝の働きぶりは、周囲の人間を感嘆させていたと言います。

 

滝は根っから陽性な、明るく前向きな女性でした。
杉家に嫁に迎えられたのも、その芯の強さと明るさで杉家に活気を与えてくれればと望みをかけられてのことだったそうです。

 

松陰22歳、有名な人々を訪ねて学ぶために10年間の諸国遊歴の旅に出ます。
この時、滝は巨額の旅費を松陰に渡し、松陰を非常に驚かせました。
非常に貧しかった杉家に、そんな大金の都合がつくはずはなかったからです。

話を聞くと、なんと滝は貧乏の中から息子に何かあった時のためにとコツコツ貯金をしていました。松陰はこの話を聞いて涙をこらえることができなかったと言います。

そして、この母の優しさに支えられた遊学こそが、松陰の一生を、そして日本の歴史を大きく左右することになったのです。

松陰が江戸に滞在時、黒船来航があり、すぐにでも世界情勢を学ぶことが必要であると考えた松陰は、勇猛果敢にも一隻の小船で黒船に近づき、アメリカへ連れて行ってくれるように頼みますが、交渉は失敗。松陰は捕えられ、長州に送られます。

そしてこの後、長きにわたって牢獄生活を送ることになります。
母親である滝は、温かい着物や食べ物を牢獄へと差し入れ続け、牢獄は湿気が多いので衛生面を心配した滝は、何度でも洗濯に訪れ、本や紙、筆記用具までも届けます。
 

松陰は、牢獄の中でたくさんの本を読み、牢獄に入っている人々を次々と感化していきます。

しかし、その日がやって来ます。
安政6525日に江戸に送られる前日、藩の情けで帰宅を許された松陰は、母とこんな言葉を交わしたと言います。
 

「大さん、無事で帰ってくれるでしょうね」
「ハイきっと帰ります」

 

松陰が生きて帰ることはありませんでした。
同年1027日、30歳にして江戸伝馬町の獄において斬首の刑に処せられました。

 
辞世の句です。
 

親思う心にまさる親心
今日のおとずれ何ときくらん

 
吉田松陰と母・滝の姿に、親子の心を思います。
 
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