ちこういん

空は解りずらい

空(くう)

空とは、誠実に過ごすことですかねぇ~。
物にも人にも、接する時も気持ち、こころが大切です。
 
 
言葉で説明しても、説明しきれないものですね。
ある言葉を使えば、説明が足りなくなる。
沢山の言葉を使えば、解かりにくくなります。
 
空とは真理、「ありのまま」ともいえますし、
真実の姿を明らかにする方法の一つでもあります。
 
「ありのまま」は縁によって存在しているので、実体があって、ないようなもの。
色即是空
空即是色
という両面からみる見方もあります。
空とは縁(因縁・縁起)とも言えます。
 
空(そら)、空気という言葉もあるように、空っぽではなくて、あるけど見えなかったり、意識しないと気付かないものだったりします。
地上があるから空がある。
表と裏、陰陽といった二つで一つの側面です。
 
 
そもそも、仏さまが、私たちに悩み苦しみの根源である煩悩と、折り合いをつけるための智慧を説かれたものが、今、お経の難しい言葉になってしまいました。
 
仏の悟り、真理を「実相」(ありのままのすがた)とも言い、その実相をありのままに把握することが正しい認識です。実相をそのままわが心に受け止め、どう対処するか、それが智慧です。
 
物事の真実の姿は、一方の面だけで見極めることはできません。
また、対立する二つの面だけで、全体的な把握をすることも完全ではありません。
そこで、対立する二面いずれにも偏ることなく、両方を融合して真実の姿を明らかにする第三の面が必要となります。
 
三諦(さんたい)について
「諦」とは、「つまびらか」「あきらか」ということであり、仏の悟りによる真理を意味します。

天台大師は、実相を明らかにする方法として、この三方面を「空くう・仮け・中ちゅう・の三諦」として説き、さらにこの三諦の見方と修行で、苦の根源である三惑との向き合い方を教えます。
*三惑(見思けんじ・塵沙じんじゃ・無明むみょう)
 
空という見方
人を見る時、まず、その人に対する正しい認識がなければ、正しい判断が下せない。その人の表面の姿・行動のみを見て、その人の本質を見失えば、判断を誤ります。


また、その人の本質はこういうものだときめつけて、時々刻々と移り変わる姿・行動をありのままに把握しないとすれば、やはり正しい認識とはいえません。


その人の、姿・行動も、その人の特質・個性も、その人の本質も、全部、そのまま受け止めることが大事となります。

 

その人の性質・心は空と言えるでしょう。
姿・形がいは仮のもの、生命(いのち)は本質といえます

 
つまり、真実の相をあらわす三つの側面であります。
空諦は事物の性分、

仮諦は事物のあらわれた姿・形
中道は事物の本質

たとえば、お水。
 

水は、表面張力があり、あるいは溶解力があり、零度以下では氷となり、百度以上では水蒸気になる等の性質を持つ。
それが空諦です。

 

水蒸気となり、あるいは氷となり、あるいは冷水となる。
その姿・形は仮諦です。

 

お湯、氷、水蒸気、すべて水です。その本質は変わらない。
2О。それ自体は、中諦です。

 
 
私たちが日々、生きていくうえで、苦しみの原因である心の「とらわれ」執着心から離れるための捉え方、見方が「空」といってもいいでしょう。
 
空を自分が体得したら、世の中の見方が変わるでしょうね。
それが仏さまであり、そうなる為に修行があるのですから。
 
 
さらに、難しくなるような説明も補足に。
 
三諦について
〈空諦〉くうたい
「空」の字は一般的に「うつろ・ない・欠けた」という意味に理解されていますから、「空とは無(非存在)」と考えがちですが、仏教では精神のあるものも、ないものも、一切世間のものはすべて因縁によって生じており、因縁によって生じる事物は、それ自体に実体はないとして、これを空と説いています。つまり、一切の事物には実体がないという真理を空諦と言うのです。
 
天台大師は、原始(小乗)仏教の説く空は、存在を分析して空であることを観ずる析空観であり、大乗仏教の説く空は、存在そのものを直ちに空と観ずる体空観であると説いています。
 
また小乗は、空のみを見て不空を見ないから但空と言い、大乗は一切の存在を空であると見ながら、同時に空でない仮諦・中諦の面も見るので不但空と言います。
 
〈仮諦〉けたい
仮諦とは、いかなるものも、実在はしないけれども、現実には、その姿がはっきりと現われていることを言います。
仮とは「仮に想定されたもの」のことであり、実在しないけれども比喩的な意味で「存在する」と説くことです。故に、実体性はないものの、現象として仮に存在する意味として用いられています。
現象としての諸法が仮であることは、『大品般若経』に、
物体は多くのものが集まって作り上げられている。(受仮)
法そのものは、因と縁とによって生じたものである。(法仮)
すべては名のみあって、実体のないものである。(名仮)
の三仮が説かれ、あらゆるものに自性(もの自体の本性)のないことを示して、凡夫のとらわれを破しています。
 
〈中諦〉ちゅうたい
中諦とは、仮諦と空諦の二辺に執着しない中正の真理を言います。
つまり、すべてのものは、因縁によって仮に存在しているに過ぎない故に空であり、空という固定的な体もない故に、空もまた空と言えます。
仮と空を共に否定し、空と仮を共に立てて偏執のないところに真実がある、というのを中諦とも中道とも言います。
 
この中道は、二者の中間というような折衷的な考えでなく、空諦と仮諦の両面を包摂したところの真理ということなのです。
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