ちこういん

恥じ入る

1020日 おはようございます。
 
朝の一言
疵を蔵し徳を揚げ、自ら省ること能はざるは、
是れ無慙の人なり。
若し自ら過を見るは、是れ有羞の僧なり。
                  日蓮聖人
 
きずをかくしとくをあげ、みずからかえりみることあたはざるは、
これむざんのひとなり。
もしみずからあやまちをみるは、これうしゅうのそうなり。
 
キレイなところばっかり見せて、善人ぶっちゃいけないよ。
という感じ、こんな意味です。
 
聖と俗について
 


公(社会人格)と私(個人格)とがあわさって、
ひとりの人間となります。
 
社会人格は、理性の働きを強く受け、公明正大であろうとします。
これが「聖」です。
個人格は、本能の強い影響を受け、私情で動くものです。
これが「俗」です。
 
この二つの人格を兼ね備えて破綻しないところに道があります。
それが仏教でいう菩薩道です。
 
原始仏教は、「聖」を求めて、「俗」を捨てさせようとしました。
これが出家道です。
これ、雰囲気出てて見た目はいいですよね。
 
しかし「俗」は肉体に即したものですから、
人が生きている限り、完全に捨てさることはできません。
 
日本では、比叡山の伝教大師より教え伝わる、
菩薩道の目指すところは、「聖」と「俗」の調和にあります。
 
法華経は、「聖」と「俗」とをコントロールする教えであり、
日蓮聖人は、その実践を示しました。
 
では「俗」とは何か?
いわゆる「色と欲」です。
 
色気も欲気もなくなったとしたら、
人は干からびたようになってしまうでしょう。
 
どんな立場の人でも、「聖」と「俗」とをコントロールすること、
言い換えれば、公私を混同しないことが大切ですね。
 
私は聖者でもなんでもありませんが、
現代での難しい、僧としての道を模索し、
「有羞の僧」を心掛けています。
 
有羞(うしゅう)とは?
自ら、省みる心を持っていること、
はじる心を持っていることです。
 
何を羞じるのか?
それは「無信心」を羞じることなんです。
 
自ら信に徹せずして、他人を安心に導くことはできません。
自らは人格を磨き、人間の自然な営みの中で、
共同で社会を築くところに、仏教の目指す即身成仏もあると思うのです。
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