ちこういん

熊本城加藤清正公

624日おはようございます。
 
朝の一言
天は賢人をすて給はぬならひなれば
てんは けんじんをすてたまわぬ ならいなれば
                日蓮聖人
 
熊本の震災や東日本の震災と、いまだに私達の心は、過去の喪失感と未来への不安でいっぱいです。しかし、多くの人々が心をくだき、暗中模索しながら前進しようとしていることも確かです。
 
日蓮聖人は、どんなに悲しく辛いことがあっても、天は賢人を捨てはしないと言われます。
では「賢人」とはどのような人なのでしょうか?
それは頭がよく成績のよい人ではありません。
「賢人」とは、真実を求め至誠を捧げようとしている人々のことであります。
 
震災によって、正しい人間性に目覚め、
新たな絆で結ばれようとしている私たちを、
天は見捨てはしないはずです。
 
 
今日は、清正公忌。御命日です
熊本といえば熊本城、加藤清正公です。


 
加藤清正公は「妙」「法」「蓮」「華」「経」の五文字を冠した五つの寺を建立しています。
25才の時に、父の菩提を弔うため難波に本妙寺を建立し、その後の越後水俣の法華寺、豊後鶴崎の法心寺、長崎の本蓮寺、肥前大村の本経寺がそれです。
この他数多くの神社仏閣、京都の本圀寺の三十三番神堂、東京池上本門寺の石段此経難持寺を建立しています。
 
清正の善政の功績は、今なお熊本市民に慕われています。
永禄5年(1562年)624日尾張国生まれで、豊臣秀吉とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もあります。
幼名を夜叉丸(やしゃまる)といい、9歳の頃から秀吉に仕え、元服してから加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗りました。
初陣がいつかは明らかではありませんが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てました。
 
天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、いっきに肥後北半国195000石の領主を任命されます。清正27歳のときでした。前年に佐々成政が肥後統治に失敗した後を受けたものでした。

入国当時の肥後は国衆(こくしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていました。当時肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残しているほどです。
 
入国後、清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、また南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになりました。
でも熊本では善政の事跡は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるのです。
 
文禄・慶長の役では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では、石田三成、小西行長らとの確執から東軍につき、小西滅亡後は肥後南半国も領して、実質ともに54万石の大大名となります。関ヶ原で東軍についたとはいえ、豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城で秀吉の遺児秀頼(ひでより)と徳川家康を会見させることに成功しました。
 
これで豊臣家も安泰と思われたのですが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳。
奇しくも生まれた日と同じ624日でした。豊臣家も清正の没後わずか4年で大坂夏の陣に破れてしまうのでした。
 
 
その加藤清正公が建てたお寺の一つ、神楽坂の円福寺があります。
昨日はそこで、勉強会です。
 
お坊さんも、今はスカイプ。
九州から来れないお坊さんも参加できていました。
便利になりました。
 
終わったら、一緒に夕食もいただきました。
 



 
コーヒー飲んで、ブラブラして、




遅くなりましたので、解散しました。
定期的な勉強会は、お互いを刺激し合っていいものです。
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