ちこういん

多数決

6月17日 おはようございます。
 
朝の一言

汝只(ただ)正理(しょうり)を以て前(さき)とすべし。
別して人の多きを以て本(もと)とすることなかれ
 
                   日蓮聖人
世間をみると、善人は少なく、悪人が多いものです。
そうであるならば、少ない多いで価値を決めて良いのか。
ただ正しい道理を第一とすべきであり、
別して人数が多いかどうかを判断基準にしてはなりません。
 
 


無理が通れば道理が引っ込む、と言いますね。
 
理とは何でしょう。
キリスト教では、これを神と云います。
仏教では、これを如来と云います。
キリスト教では、理を、神の意志による取り決めと考え、
仏教では、理を仏(如来)そのもの、また、因果の法則の働き、
つまり、大自然そのものと見るのです。
 
いずれが正しい物の見方かは措くとしても、
この世の中は、
理を本として成立し、
理に従って維持されています。
 
しかし、人間の世界は、必ずしも理に従うとは限りません。
私たちは、大自然にはぐくまれ、信頼を寄せていますが
人間の世界では、
「人を見たら泥棒と思え」
という疑惑の方が真理として通用しています。
また、国は信用できないから、憲法で縛れ。
政治家も信用できないから、監視しろ。
 
「信用するな」という空気の中で、育っていく子供たちのことを考えますと、悲しく、切なくなります。
 
大自然の中にあって、大自然と共に、文化を開拓してきた人類が、
何故に大自然をお手本とすることが出来ないのでしょうか。
 
             ミレー画  


農作業は、大自然の理に順うことです。
肥料を施さずに、施した振りをしたり、
雑草を除かずに、除いた振りをしたり、
土地を耕さずに、耕した振りをしたとしても、
大自然を欺くことは出来ません。
 
必要な労作を怠れば、何も得られないから、
正に、因果応報、自業自得です
 

他の職業は、必ずしもそうとは限りません。
商人は不正品を売り、
職人は手抜きをし、
政治家は嘘をつき、
教師は物知り顔をする。
宗教家は自身が実行しないことを説教する。
 
人間を相手とすると、誤魔化しが利きますね。
 
 
仏教は多数決ではないんですよ
 
正しいこと、道理って、
人の心を中心として多数決で決められないのです。
 
民主主義の時代に逆行していると言われるかも知れません。
ですが、人間を根本とする民主主義と仏様の教えは根底から違います。
 
人の心は縁に触れ常に変わる欠点があります。
仏様が説かれる教えは、
縁に触れて変わる心の欠点を排除して説かれます。
 
 
「みんながそうするから」ではなくて、
人に流されない、自分自身の目、心を養わなければならないと思うのです。
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