ちこういん

モラルから徳へ

「マナー」と「モラル」と「徳」
 
エドワード・モース氏が日本滞在中に持っていた写真に、映っている人々の雰囲気、着ているもの、何か懐かしさをかんじます。


 

モース 明治 写真- Google 検索

 
モース氏は、次のように記録しています。
「世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。」石川欣一訳『日本その日その日』、一九七〇:原著Japan Day by Day 1917
 
明治期に日本を訪れた多くの外国人が、日本人の幸せそうな暮らしぶりに驚いています。
当時の日本は、物質的には決して裕福ではありませんでした。
それでも、人々は互いに思いやりをもって接し、精神的な幸せを実現していたようです。
以前、ブータン国と国王が話題になり、覚えておられる方も多いと思いますが、同じく心の豊かさを大切にした姿に、昔の日本を見るような気がしました。
 
モース氏は次のような事も言っています。
「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり・・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。」(同上)
 
日本人がこのような社会を作れたのはなぜか。
 
気候風土が関係していると思いますが、それよりも、仏教や神道、儒教道徳が、庶民まで広く行き渡っていた事、江戸時代の寺子屋、現代で言えば、小学校で教えていたことが良かったからだと思います。
『金言童子教』

 
物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを優先すること、勉学に励むこと、親孝行し、年配者を労わること、他人の気持ちを思い遣ること等。
日本人の価値観の基礎を作ったといっても過言ではありません。
 

 
江戸時代まで勉学は、「修身」と結びついていた。
つまり、知識の習得と同時に、自己の精神を高め、気高く生きる作法を身に付ける事が勉学でありました。
 
 
それが明治以降、いつの間にか勉学は、試験に合格して「立身出世」するための手段と化していったようです。
現代においても、子どもも親も、学校、会社、生活するためということに神経を使い、「修身」などという言葉は日常生活で出てこなくなりました。
私達は、江戸時代までの人々とは全く違った価値観の中にいるようです。
 
今の価値観で言えば、「民主主義」「人権」と個人の主義を主張する権利が守られていますが、それを巧みに悪用する人もいますので、憲法に書いてあるから、法律で認められているからと、「書いてあること」が優先されて、ルールで全てが決まっていくような、そんな社会にしてはいけないと思います。
 
「マナー」や「モラル」という言葉は、あちらこちらで言われていますが、「徳のある人」「徳を修める」という言葉はあまり使われないということは、その概念が頭の中に無い、関心が無いという事かもしれないのは残念です。
 
「モラル」の語源のラテン語に「習俗・慣習」の意味があるように、本来は、時間の流れを含んだ概念ですが、例えば、「タバコのポイ捨てをする人が昔は多かったが、最近は日本人のモラルが向上して、そういう人は少なくなった」という言い方をします。それはモラルではなくて単に「マナー」の問題ですから、誤用も多いようです。
 
「マナー」とは、人間同士のコミュニケーションにおいて、相手に不快を与えない最低限の行動様式、「作法」のことであって、教えてもらい、少し気をつければ誰でもできます。
対して、「モラル」は、過去から蓄積された共同体の価値観を指すのであって、一朝一夕には身に付きません。
さらに、「徳」は、自己の生の有限性を悟り、「何が美しい生き方か」を問い詰めた先に持ち得る価値観や行いを指すのであって、より能動的で高度なものです。
 
現代人は、「徳」や「モラル」を忘れ、「マナー」のことで頭がいっぱいになっているかもしれません。
 
私達は、形式的な「マナー」は適度に身につけ、それより「モラル」について良く知り、これを守り、さらに深遠な「徳」を高めることに時間を使いたいものです。
江戸時代までの子供は、徳育を受けていたのですから。

 
信はこれ道のもと 功徳の母なり
徳を生み出すものとは?

日蓮聖人「日女御前御返事」のお言葉の中に、
『華厳経』賢首菩薩品の言葉を引いて、
【華厳に信を道の元(もと)功徳の母と為す】と教えています。
 
 
あえて、信を信心に限るのではなく、信念や理念、希望など、心のあり様と考えてみると、人は心に思うことが行動や言葉にあらわれ、すべての営みの根元となります。
心が不調だと行動はもたつき、言語も不明瞭となり、顔つきもさえません。外側にあらわれる行為や表情すべてが心を直接・間接にあらわしています。
閉ざした心を開放し、理念や希望をもてば、行動や言葉は輝きだします。
それは人の心をも動かすことになる。
信という心は、全てを産み出す母なのです。
 
 
モース氏の持っていた写真が、私たちの胸を打つものがあるのは、そこに映っている人々の表情から滲み出る「信」や「徳」が、忘れかけていた何かを想起させているからかもしれません。
スポンサーサイト



ちこういん
Posted byちこういん

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply