ちこういん

自尊心も高すぎると

春のお彼岸も過ぎましたが、この七日間は濃密でした。
 
自坊や他寺での法要もあり、塔婆書きもあり、ご相談もある。
いつものごとく、100軒ほど御経に回りましたが、いろんな方がおられます。
 
自虐的なお婆ちゃんが、とても可愛いのです。
ご自分が足元が危ういので、私がお伺いしても、お迎えもお見送りも、しようとしますが出来ないので、ニコニコしながら「ごめんなさい」と言いながら、「転んだらもっと迷惑かけますから、全く役立たずで」と言ったり、「ぼけちゃってホントにしょうがないんだから」とか、「留守番にもならないのよ」とか、何を言っても全て自虐なんです。
でも、ずっと柔らかく優しい空気に包まれるのです。
 
やはり、何かしてあげたいと思ってしまいます。
お婆ちゃんの作戦か。
私のエゴというものか。
また、女性蔑視でしょうか?
 
 
女性は強く、社会で活躍をという時代です。
プライド
自尊心
輝く女性たちがいます。
 
 
お婆ちゃんには、今の時代のプライド、自尊心は?
超越した存在かも?
 
 
国民一人一人が豊かさを目指して、現政権のアベノミクスにより、一部の企業の景気は回復し、株が上がり、一部の会社では給料が上がるものの、まだまだ多くの方は実感が味わえない状態でもあり、税金も上がると、そんな状況に不平不満を漏らす人も多いことでしょう。
 
 
今は「我慢、我慢」と自分に言い聞かせている人も多いかと思われます。
人から「我慢するとよくないヨ」言われたことがあるかと思いますが、仏教では「我慢」という意味が、もともとは善くないことでありました。
実は我慢も、自分の強い意思表示の現れから来る煩悩の一つとします。
 
 
私たちの日常の概念では、我慢は「耐え忍ぶ」ことであり、善い意味合いがある反面、我慢ばかりしているとなれば、逆に悪い意味合いが強くなり、不平不満につながります。ですから、「我慢するとよくないヨ」ということになるのです。
 
 
「耐え忍ぶ」ことの中に寛容な態度・姿勢がなければ、不満がつのり自分が不幸に感じられるでしょう。自分に対する非難や攻撃にあっても、寛容な態度で「耐え忍ぶ」、どんな環境におかれても寛容な態度で「耐え忍ぶ」ことを、仏教では忍辱(にんにく)と言います。
 
 
世の中の景気が悪くなれば、確かに不平不満はつのります。しかし、自分本位の姿勢、「我」を張った態度で物事に臨むならば、たとえ景気が善くなったとしても、また違う不平不満がつのることでしょう。
いろいろ不平不満はあることかと思いますが、ここは「あるがままに受け入れ、忍辱の心を持って耐え忍ぶ」という仏教の生き方に学ぶこともいいのでは?
 
 
お彼岸の言葉の意味で説明しましたが、六つの心がけの内、その一つ「忍辱」というものがあります。
堪え忍ぶことです。
怒りを抑えることでもあります。
 
 
怒りを仏教では瞋恚(しんに)といいます。
瞋恚は、自他を破滅へと導きますから、忍辱の心が大切になります。
短気は損ですよね。
 

 
自尊心
良い意味でも悪い意味でも使われます。
高い人が他人を見下すのは嫌ですよね。
悪い意味では、仏教では我慢と言います。七慢の一つ数えられ、おごり高ぶる慢心を持っているということになります。
ここから、瞋恚が生じることがあります。
 
 
この「慢」をもう少しご紹介いたします。
 

日蓮聖人は慢心について『撰時抄』という書物に、
「慢(まん)煩悩(ぼんのう)は七慢・九慢・八慢あり」と、仏教でいう「慢」のことを説き明かしています。

 
七  慢(しちまん)

「七慢」とは七つの慢心をいいます。
慢心とは、他をあなどる心、自ら驕り高ぶる心をいいます。
 

「七慢」とは、慢・過慢(かまん)・慢過慢(まんかまん)・我慢(がまん)・増上慢(ぞうじょうまん)・卑慢(ひまん)・邪慢(じゃまん)をいい、『倶舎論(くしゃろん)』または『品類足論(ほんるいそくろん)』などに説かれています。
 

一番目の「慢」は、自分より劣(おと)った者に対して「自分は優(すぐ)れている」と自負(じふ)し、同等(どうとう)の者に対しては「同等である」と心を高ぶらせることをいいます。
 

二番目の「過慢」は、自分と同等である者に対して「自分の方が優れている」と思い高ぶり、自分より優れている者には「同等である」と侮(あなど)ることをいいます。
 

三番目の「慢過慢」は、自分より優れている者に対して「自分の方が優れている」と自惚(うぬぼ)れて、他()を見下(みくだ)すことをいいます。
 

四番目の「我慢」は、今では「耐()え忍(しの)ぶ」というような意味で使われていますが、仏法本来の意味は、自我に執着し、我尊しと自惚れ、それを恃(たの)むことをいいます。
 

五番目の「増上慢」は、未(いま)だ悟(さと)りを得()ていないのに、「自分は悟った」と思うことをいいます。
 

六番目の「卑慢」は、自分よりはるかに優れている者に対して、「自分は少ししか劣っていない」と思うことをいいます。
 

七番目の「邪慢」は、自分に徳がないのにも関わらず、あると思って、「自分は偉(えら)い」と誇(ほこ)ることをいいます。

以上が「七慢」のおおよその意味です。 
 

日蓮聖人が『新池(にいけ)御書』に、
 「皆
(みな)人の此()の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程(なかほど)は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢(じまん)して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし」
と仰せのように、慢心は修行を正しく全うする上での最大の障害となります。
 

なぜなら、「七慢」等の慢心を起こすと、自分自身の信心の姿勢も、また他の物事に対する問題も、すべてにわたって正しく判断することができなくなってしまうからです。

 
どんな立場にあろうとも、私たちは、慢心を起こさないように、自分の生活を謙虚に反省していくことが大切ではないでしょうか。
そして、辛く長い日々があろうとも「冬は必ず春となる」ことを信じ、寛容な忍辱の心を持って臨んでみてはいかがでしょうか。
 
お婆ちゃんのように、長くご苦労なさってきた方のように、「実るほど頭の垂れる稲穂かな」で、周囲の人を和ませる柔らかなひとになりたいものです。
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