ちこういん

六文銭 其の三

六文銭 (3)「日蓮聖人について」
 
今日はお彼岸の明け。
この一週間、心身ともに疲労困憊で、自分が向こう岸に渡るところでした。
お坊さんのお彼岸は、苦しいものです。 
 
前回まで、六文銭から彼岸のお話をしてまいりました。
この彼岸の習慣は、印度や中国では行なわれたようすはありませんが、わが国では古く聖徳太子の頃から行なわれていて、その内容は、時代によって移り変りがありましたが、現在では世間一般に先祖の供養をすることが主になっており、その現われとしてお寺へ参詣して塔婆供養をしたり、お墓参りをする事が通例となっています。
 
 
この彼岸本来の意味を考えてみますと、波羅蜜(はらみつ)という言葉の「到彼岸」または「度」、つまり渡るという意味です。
 
 
仏教はお釈迦さまの教え
その教えであるお経が、沢山あります。
どのお経を拠り所にするかによって、生き方が変わります。
 
 
今回は、日蓮宗の私からみた日蓮聖人のお彼岸です。
 

 
日蓮聖人は、『彼岸抄』という御遺文(日蓮聖人のおことば)の中で、彼岸の期間は善行・悪行共に過大な果報を生ずる特別な期間であるから、悪事を止め、善事に精進するよう勧めています。
 
 
善悪決定の時節なり。
二季の時正、此の時に小善は大善となる也。
小悪を作ればまた大悪となる者也。
善悪二の道を定むといえども、一善なれども能く菩提の彼岸に到たる故に彼岸と號する也。
此の七日の内に一善の小行を修せば、必ず仏果菩提を得べし。
余の時節に日月を運び、功労を尽くすよりは彼岸一日の小善は能く大菩提に至る也。
 (昭和定本 2146)
 
 
この期間に行う仏事、つまり、彼岸の間に積む功徳は大変素晴らしく、又それが例え小さな善行であっても功徳の大きなものになると教えています。
 
要するに、善いことも悪いことも、大きくなってしまうということです。だから、進んで善いことをした方が得ですよ!ということ。
 
 
一般仏教において
彼岸に到達するために六波羅蜜という修行を説いていることは前回お話しました。六つの修行を六文銭として、手に持って彼岸に渡りましょうと。
 
 
そこで日蓮聖人は何と?
 
法華三部経というものがあります。
その法華経の開経(プロローグ)である無量義経の中に、
「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」
という言葉、教えがあります。
 
 
法華経の中に六波羅蜜の修行の功徳が収まっていると、お釈迦さまが言われるのです。そして、日蓮聖人は法華経を信じることで彼岸に到達できると教えています。
 
六波羅蜜を行っていくより、信行こそ大事であると。
心が変わればすべてが変わっていく。
自我にとらわれず、信じることで仏の智慧が得られるということです。
 
 
「日蓮聖人のお言葉」

此の経を一文一句なりとも聴聞して神(たましい)にそめん人は、
生死の大海を渡るべき船なるべし。

妙楽大師の云はく
「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資く、

思惟修習永く舟航に用たり」云云。

生死の大海を渡らんことは、
妙法蓮華経の船にあらずんば、かなふべからず。

 
(妙楽大師は、比叡山延暦寺を開いた伝教大師の師匠の師匠です)
 
【意訳】

法華経を一文一句でも心肝に染めれば、彼岸(悟り)へ渡る力になる。
思索し修行することは、永く生死の大海を渡り、
彼岸に着く航海のために用いられます。

苦しみの大海を乗り越えるには「南無妙法蓮華経」の船に
乗る以外には叶えられないのです。

 
 
今回は、日蓮宗の私の立場から、ご紹介させていただきました。
 
「六文銭」イコール「法華経・お題目の信心」ということになります。
 
 
仏教でも、宗派経典によって答えが異なります。
故に、「誰かが言ってた」「昔から」ではなく、「御経にはこう書いてある」ということが大切になってまいります。

そして、経典を比較検討し、真意を汲み取る為に、日々自己の研鑚と修行をしなければならないのが、私達お坊さんの勤めなのです。
 
 
今回は専門の言葉が続いてしまいました。
彼岸の明けに、急いで書きました。
全体を通して、何となくでも伝われば幸いです。
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